村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。
オーラソーマやカラーセラピー、ヌメロロジー(数秘学)の分野の
小説としては、読みやすいですが、前回の『1Q84』の方が面白
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村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。
オーラソーマやカラーセラピー、ヌメロロジー(数秘学)の分野の
小説としては、読みやすいですが、前回の『1Q84』の方が面白
富士ゼロックス株式会社から発行されているGRAPHICATION(グラフィケーション)No,186における特集記事、「お金について考える」の中で、興味深い対談を読んだ。
ドイツ文学者の池内紀と、作家の小沢信夫が、「お金と人生ドラマを語る」と題して、おカネにまつわる話をしていて面白い。なかでも、池内の次の発言が、日本という国を象徴している。
「…年の瀬の一番最後の仕事は、ヨーロッパでは新しい年への祈りを捧げようと、終夜ミサをどこの教会も行うんです。それに対し、日本では借金取りを追い払うのがおなじみの行事だった。(笑)。年の一番最後の過ごし方が、祈りであるか支払いであるかというのは、やはり国民性の違いなんでしょうね。」
経済発展、お金ありき、という国のあり方は見直す必要があると感じるが、アベノミクス効果に踊る人々の耳には、届かないことだろう。数字に心乱されるよりも、祈りを捧げる最後の1日があってもいい。お金は必要ではあるけれど、時々、ただの「紙」にしか見えない瞬間がある。虚数に人生を狂わすことはない。3.11震災が、日本人に何を伝えようとしたのか、思いを巡らせれば、新たな異なる世界が見えてくるはずだ。
ひとりひとりの子供たちの命を、改めて愛おしく思える。そんな小説を読んだ。
中脇初枝の最新小説『きみはいい子』は、なんらかの事情で、親からの虐待を受けているこどもたちの日々が描かれている。本当は愛を注ぎたいのに、不器用な手を、痛みの側へと放り投げるしかない、本当は愛されたかった母のリアリティのある姿も。
母と子の濃密な時間は、ときに息苦しさに包まれて身動きがとれない。愛をもとめる子のまなざしが、強いプレッシャーになって、母を苦しめる瞬間がある。
母自らが十分に愛されなかった記憶が繰り返す、悲しい現実もある。
けれど、子はいつも、お母さんの手を求めている。
お母さんの優しいまなざしへ向けて、歩んでいこうとする。
やわらかな中脇の文章は、滴のように、かさかさに乾いた母性の内側へと染みとおってゆくようだ。
中脇初枝は、1974年生まれの、徳島県生まれ、高知育ちの作家。高校生のときに、小説『魚のように』で第二回坊っちゃん文学賞を受賞している。
学生時代、同世代の彼女の初々しい小説を読んで、新鮮な感動を覚えた記憶がある。文庫本の裏表紙の、涼しそうな清らかなまなざしの顔写真と共に。
しばらく、名前をみていないな、と気になっていた。
時を重ねて、中脇は、お母さんになって、優れた赤ちゃん絵本を書いていることを最近知った。筆は続いていた。
緩やかに、豊かに日々を重ねて、新たな作品が送りだされてゆくことに、なぜか、親しい友だちのことのように嬉しく思った。人間として生きる一歩一歩が、作品と言う命となって、人々へと受け継がれてゆく。
母性という営みが持つやさしいつよさを、教えられた気がした。
中脇のこれからの仕事に期待したい。
今夕のNHKテレビ18時からの番組、「NOKKO 母の歌 新生フレンズ レベッカ栄光と孤独 熱海の日々」を見た。
「レベッカ」ば80年代、一世を風靡した音楽グループで、NOKKOは、そのボーカルの少女、大きなリボンをつけて激しく踊る姿と、カリスマ性と、抜群の歌唱力で当時、同世代の女の子にとても人気があった。
高校時代、わたしも大ファンで、友人同士、コピーバンドを組んで、なんと、ボーカルでマイクを握っていたこともある…。あんなふうにカッコよく、大人なんて蹴飛ばして、とんがった少女性で、世界のすべてに反抗してみたい、と、憧れながら。
そして、今日、ふと、画面に映る、NOKKO、は?
「えっ? ホントにNOKKO?]
お母さんになったNOKKOは、ごく普通のいわゆる「おばさん」の姿で、優しく笑っている。静岡の熱海で、音楽家の夫と、小さな娘さんと穏やかに暮らす日々。
あの、カッコよかったNOKKOはどこ?
昨年12月に埼玉のスーパーアリーナで、結婚指輪をきらめかせて歌い、歌い終えた後、「お母さんは、疲れたよ」と、、立ち去っていく、NOKKO。どこまでも、どこまでも、お母さんのNOKKO。
青春時代の甘酸っぱい思い出から、遠く時間がたったことを、見せられたような…。
NOKKOが幸せに歌い始めたことは、嬉しいけれど、アーテイストは、どこまでいっても、アーティースト!という姿でいて欲しい。
やっぱり、ふっくらとした頬笑みと、大ヒット曲、フレンズの歌詞、少女の暗がりと思春期の孤独と揺らぎ、寂しさは似合わないな~。
今は、その孤独や寂しさやプレッシャーが全くなくなった、という。そう、幸せ、だということ。
そして、お母さんの応援歌を、作り始めたNOKKO。
その新しい歌も聞いてみたいけど。
やっぱり、カッコよく踊って、また優しい母の声も聞きたい。
わたしは、少女性と母なる大地性、両方をバランスよく、携えた表現を、していきたいな…。
先日、芥川賞を受賞した、朝吹真理子の『きことわ』。不思議なタイトルの響きに調和するように、読み終えた後も、よるべない浮遊感にとらわれた。
物語は、とりわけ、波乱に満ちた展開があるわけではない。
貴子(きこ)と永遠子(とわこ)の過去と現在が入り交じり、子ども時代の夏の記憶が、どこか懐かしい匂いを伴って、読み手へと 届く。
時間、というものの謎めいた在り方が、二人の記憶を手繰り寄せることばの果てに、いつも横たわっている。
ジェイムス・ジョイスやヴァージニアウルフの意識の流れの小説を思い出した。
時間を描く朝吹の眼差しは、心の襞に愛おしく刻まれているセピア色の、あるいは、色鮮やかな記憶をひとつひとつ、確かめるように見つめ、描きとる。一瞬一瞬、謎めいた時間の波にたゆたっている存在こそが私たち、とでも言うように。
私たちは、今目にしている現在、いったそばから過去へと流れ去っていく時のただ中を旅している。
ここはどこなのか?そして、私たちは誰なのか?太く流れる宇宙の時の渚で、夏の木漏れ日を浴びながら、永久に解けない問いかけを繰り返しながら、ページを閉じた。
思想界の俊傑と言われている、1973年生まれの、佐々木中の著作、『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)は、面白い。
真っ赤な表紙に、銀のタイトル。書名はパウル・ツエランの『光輝強迫』の中の詩の引用。
印象に残ったページから引く。
ニーチェの「未来の文献学」から。
「いつかこの世界に変革をもたらす人間がやってくるだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の1行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。ならば、わらわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロには絶対ならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文献学者の誇りであり、戦いである、と。」
読むことの可能性を、追及し続ける。その先に見える地平を、目指しつづけること。
情報の荒れ狂う波にもまれながら、私たちが見失いがちな、「読むこと」のシンプルな大切さを、佐々木は示してくれる。
そして、残されたことばは、全て、孤高の光に満ち満ちていることを。
空にも香りがある、とはどんな香りだろう。
三宮麻由子著『空が香る』(文藝春秋)は、四季を味覚、嗅覚、聴覚、触覚の四感で味わうことをテーマとしてまとめられたエッセイだ。
四感に含まれない、「視覚」を著者は、持たない。“sceneless”(シーンレス、彼女の造語で全盲)である彼女の、四つの感覚とそして、五感を突き抜けた、宇宙へとつながる第六感は、日常のやわらかな記憶を、実に瑞々しい感性で描き出していく。
彼女の紡ぎだす、音の記憶、冬の拍子木の音、ドングリが時雨のように落ちる音、一粒のイチゴの繊細な味、そして、印象に残ったのは、空の匂いの記憶を扱った文章だ。
…夏の空の香りが最も魅力的に息づくのは、昼と夜が天気の受け渡しをする夕刻である。香りを持たなかった空に、再び植物や人間の営みの香りが戻り、風か立つにつれてそれが動き始める。
「空が香る」より
著者は、空の匂いを「天の息吹」と名付けているが、まさに、やわらかに降り注がれる呼気を、見はるかす空に感じる思いだ。
彼女のことばに触れていると、日常の一瞬一瞬を全感覚で受け止める、清々しさと謙虚さと優しさに胸が震える。
こんなにも世界は、芳しい匂いに包まれていたか、変化する音の響きに満たされていたか、舌の繊細に地図に描きこまれた味の数々、手の持つ記憶の世界の凹凸のヴァリアント…。
清澄な、生きる喜びにあふれたことばを見つめていると、ゆっくりと胸に幸福が広がり始める。生きているリアリティとは、自らの感覚と宇宙や自然、さまざまな事物と、しっかりと手をむすびあった瞬間にあるのだな、と再確認させられる。
彼女の描く絵本も、不思議な感覚を呼び覚ます。
電車が町を通り抜けて旅をする絵とともに描かれたことば、
とっ どだっとおーん どだっととーん どだっととーん
たたっつつっつつ たたっ つつっつつ どどん たたっ つつっつつ たたっ つつっつつ
どどん 「でんしゃは うたう」(ちいさなかか゜くのとも 福音館書店)
音の描写が延々と続くこの絵本を、声に出して読んでいると、本当に電車に乗って町を移動している気分になる。どどんっと大きな声で読むと、娘は笑い、真似をして楽しんだものだ。そして、読んだ夜には、「ああ、明日、電車に乗りたいなぁ」とわくわくとした旅情を誘ってくれた。
目を開いて読み、音を聞いているにも関わらず、目を閉じて、身の回りで生成、創造されている世界を感じている感覚に包まれる。世界が今、確かに生き、動いているんだよ、と教えてくれる、すぐれた絵本だと思う。
著者は、秋の紙の手触りが最も読書に適した季節だ、と書いているが、それは、紙の湿度がなく、乾いていて滑りが良く、点字が読みやすいという理由であるそうだが、紙の質感と読書は、やはり、分かちがたくつながっていると思う。
丁寧に一瞬一瞬を生き、感じることの大切さ、あたりまえだが、それこそ、感覚に目を閉ざしたら、何も受け取ることができない。
彼女のことばを受け取ること、なにかとても豊かで、美しい感謝のこころを分けてもらえた気がした。
ゆっくりと、背を伸ばして、空の香りを胸一杯吸ってみよう。
グーテンベルクが1450年頃完成させた活版印刷技術。その時出版された聖書、現存する48冊のうちの一冊が慶応大にあるという記事を朝日新聞で読んだ。
物が残るということの奇跡と必然にめくるめく思いがした。物の背後に仄見える時代の躍動、人々の思い。目には見えない何か大切な気配がそこに漂うような気がした。
データで見ることはできるが、やはり現物を間近で見たい。展示をすると、保険料だけで一日百万円!だそうだ…。企画展などでしか見られないそうだが、機会があったら、じっくりと見つめ、脳裏に焼き付けたい。
古書店で見つけた『ピカソとの生活』(F・ジロー&C・レイク著 瀬木慎一訳 新潮社版)、1943年に出会ってから10年間共に過ごした恋人フランソワーズ・ジローの自伝をひも解いていた。その中には、何枚もの写真が挟み込まれているが、ある一枚の写真に惹き付けられた。
ある部屋の奥にペットがあり、その端にピカソが胡坐をかいて座っている。右手のこぶしをあごに充てて、あの鋭いまなざしをカメラに向けている。そして写真左下の端にフランソワース゜が胸元から上、まなざしを下に落としてやや大きめに写っている。
奥にいるピカソの位置からフランソワーズの位置まで、数メートル離れているだろうか。ピカソからは、フランソワースの少し斜めに向いた後ろ姿しか見えないはずだか、そのまなざしは、女の全体をとらえているように見える。インスパイアされる何か、を絶えず求めているように感じる。
カメラから見た二人の距離は、男と女の、永遠に縮まらない距離を現しているように思えた。愛は確かにあったのだろう。しかし、二人は別れの道を選ぶ。ピカソの背後には、ピカソの絵が掛っている。残されるものは、昇華されたパッションでしかない、とでも言うように。
二人が並んで写っている写真もあるが、この距離を保った写真が、二人の真の関係をもっとも深く象徴しているのではないか、と感じた。一瞬にして切れ取られる真実が、このモノクロームの枠の中には、重く残されている。
昭和初期モダニズム詩人、山中富美子詩集抄(森開社 2009)を読んだ。
表紙には楕円形の中で、聡明なまなさしを送る富美子の写真が在る。
少し恥ずかしげな表情を見つめていると、薄明かりの下、書物を開き、ペンを走らせる着物姿の一人の少女の姿が浮かんでくるようだ。
ガラス質の言語空間に満ちたページ、同時代を生きた左川ちかの尖鋭さとはまた違ったやわらかさがある。
十代の多感な感受に拾われることばたちは、自然の永遠性に彩られ、静かなパッションをみなぎらせ、甘やかな懐かしさを感じた。
朝、海、太陽、月、道、雲、星…。
やさしい生成り色のページが、時間を遡らせ、富美子が生きた時代に呼吸するかのような錯覚を起させる。新刊でありながら、ずっと長い時間ここに佇んでいたかのような親しみを感じる詩集だ。
詩の中に使われることばには、デジタルの世界を生きる私たちが見失っている呼吸があるようだ。時代と密接に存在する、「ことば」の在り方についても考えさせられた。
しかしながら、生存の謎については、いつの時代も変わらず、永遠に解けないまま、詩の核心に、ごろりと横たわっている。