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映画・テレビ

2015年7月 1日 (水)

是枝裕和「海街diary」と河瀬直美「あん」

今、話題の映画、是枝裕和の「海街diary」と河瀬直美の「あん」。初期から才能を感じていた監督たちの作品、期待して観に行った。

「海街diary」は、女優に色が付きすぎていて、すんなり物語に入り込めなかった。女優に気を使いすぎているのでは?と思わせる遠慮がちなカメラワークが気になった。唯一、新人の広瀬すずに透明感があり、河瀬直美の「萌の朱雀」に出演した時の尾野真千子を思い出した。
自転車に乗って風と桜の花びらを額に受ける、広瀬のみずみずしい表情が印象に残った。

一方、「あん」は、樹木希林と永瀬正敏の、無名性に徹した役の在り方に圧倒された。ただそこにいて生きることの、人間の豊かさ、愛おしさ、共にある自然の尊さがそっと伝わる。

あんを作るプロセスの映像はひたすら美しかった。小豆の姿こそ、真の主人公であるように思えた。

河瀬直美も是枝裕和も、無名の役者やエキストラを魅力的に撮る、そのドキュメンタリー性に心惹かれていた。今回、どちらの映画も著名な役者を使い、興行への傾きを強く感じさせ、初期作品に在る初心やみずみずしさがどこまで保たれるのか、個人的に関心かあった。

軍配をあげるとするならば、河瀬直美に。河瀬らしさを揺るがすことなく、役者は、いっさいの色をなくして役そのものとして、リアルに存在し、物語を生きていた。

是枝の「ワンダフルライフ」の、素朴な温かさを今、懐かしく思い出す。「海街diary」にも、もちろん是枝独自の温かさ、優しさはあるだろう。けれど、どこかに「計算」が見える。その「計算」は、画面から一切消しさらなけれはならないだろう。いつだって真の感動には、何の計算もないのだから。

2014年6月11日 (水)

華 いのち 中川幸夫 前衛いけばなの作家のドキュメンタリー

 

  雨のやまない梅雨空の下、恵比寿の東京都写真美術館で上映中の「華 いのち 中川幸夫」と題した、前衛いけばな作家、中川幸夫のドキュメンタリー映画を観た。

 

 中川幸夫を知ったのは、今から何年前だろう。NHKで放送された、やはりドキュメンタリー作品だったかと思う。その映像の中で印象的だったのは、2002年の作品「天空散華」だ。

 100万枚の色とりどりのチューリップの花びらが、雪のように、雨のように舞う幻想的な風景、その中に、白い衣装をまとった、舞踏家、大野一雄がはかなくも妖しく踊る。

 地上にありながら、すでに天上の世界がそこに開かれていた。大野の後ろで、小さくたたずむ中川の姿がつつましく、風の力にそっと耐えて咲く、野の花のように見えたことを覚えていた。

 今回の映画にもその映像は流れ、改めて、チューリップの花びらを見上げる、中川のまなざしの先に在る苦悩を見る思いがした。あの小さな体にどれほどのエネルギーが宿るというのか、造られた作品の、破壊的なエロスの発現は見るものを圧倒する。

 

 そして、私がことばに関わるものだからか、作品のタイトルがとても魅惑的だと改めて感じた。赤いチューリップの花びらの山は「魔の山」、トーマス・マンのハンス・カストルプの物語を彷彿とさせる。色を失ったチューリップの岩のような白い肢体、「死の島」をみると、福永武彦の広島を題材とした同名の小説を思い出した。中川がこれらの作品を読んでいたかどうかはわからないが、それら作品のイメージに通じる世界観を感じることに驚く。

 華たちの生から死への「うつろい」を瞬時にとらえる。そこに官能と痛みと、ときに怒りに似た喜びを感じたであろう中川。華を「生ける」とは、有限の華のいのちを、この手に「生け捕る」ことではないだろうか。

 芸術の本質は、対象としたあらゆるモチーフから、いのちを「生け捕る」ことで成り立つのだと思う。華から生け捕る「いのち」を、ことばから生け捕る「いのち」を、次の「いのち」の時代へと、作品を通してつないでゆくのだ。

 中川の作品は、潔い。独り自立してたつ、蓮の花の美しさは、中川の精神性をまっすぐに物語る。流派や、世間や、常識にもたれない永久に変わることのない新しさの中に、りりしくも静かに、華は息づいているのだ。

 

 

 

2012年8月26日 (日)

おおかみこどもの雨と雪

 

 この夏お勧めの映画を一本。

 おおかみこどもの雨と雪。

 アニメとは思えない映像がとても美しいです。

 台詞のない控えめなシーンの積み重ねが、柔らかい時間の推移を描いていて秀逸。

 おおかみこどもの雨と雪も、とても可愛らしいです。

 人間とおおかみの間で揺れ動くこどもたちの、それぞれの自立の姿に、そして、それを見送る、母、はなの姿に心ふるえます。

 雄大な自然描写も、すがすがしい。

 ぜひ、映画館へ足を運んでみてください。

http://www.ookamikodomo.jp/index.html

2011年2月22日 (火)

ヒア アフター 生と死の狭間で

 

 人間は、死んだら一体どこへ行くのか?

 この有限の生の行方、という謎は、私たちの人生の転換期に、不意に訪れる。そして、「いかに生きるか」という根源的な価値観をその都度、大きく揺さぶるものだ。

 スティーブン・スピルバーグ製作総指揮、クリント・イーストウッド監督、マット・デイモン主演の映画、「ヒア アフター」は、「死後の世界」へまなざしを向けた作品だ。

 不意に人生を襲った、災害、津波によって、生死の境を彷徨い、臨死体験を経験したジャーナリストの女性マリーと、霊能力という特異な才能を持ったがゆえに、見えすぎる、知りすぎることによってもたらされる苦悩を抱えたまま、ひっそりと過去を消して生きようとする霊能力者、ジョージ、そして、事故で最愛の兄を失った少年、マーカス。3人の人生に訪れた「生と死」の問題が交錯し、それぞれが、絶望や孤独から、希望へと光を見出していく物語。

 マリーは「死」の世界を垣間見ることで、ジョージは「死者」の声を聞くことで、マーカスは最愛の兄の「死」を見つめることで、今ここにある「生」をこそ深く見つめることなる。

 そして、それぞれの経験した「死」こそが、3人を巡り合わせる。死の世界の、死者の導きが、今ここに生きる者たちの、存在の素晴らしさと豊かさに「光」をあてるのだ。

 臨死体験をしたマリーが見た映像、光の靄の中に人がまばらに立っているシーンはどこか仄かに懐かしい。私たちが彼岸からやってきた存在であり、また帰ってゆく世界であるならば、それも当然かもしれないが、あまりにもリアリティがあって、少し怖くなった。

 十数年前、実父が心臓発作で倒れた時、薄れゆく意識の中、とても強い光に吸い込まれていく経験をしたそうだ。それは、この上なく心地よいもので、引かれるまま行ってしまおうか、と思ったが、そのまま行ってはいけない、と思い戻ってきたら、意識が戻ったらしい。

 父の見た世界も、きっと「死後の世界」の入り口だったのだろう。

 

 死者の言葉を聞く、一人の人間の背景を知りすぎない方がいいという、ジョージのことばはせつない。けれど、生の側からのみ、人生を見つめるだけでは、人生はもっと寂しいものになってしまう。光があるから闇があり、生と死は結び合い、重なり合って、「今」という時間が煌めきを増す。

 生きて前を向いていれば、きっと分かり合える人間に出会い、豊かな時間がそこに育まれてゆくのだから。

 主演の、マット・デイモンの控えめな演技が良かった。霊能力を持つ繊細で誠実な青年を好演していた。全体的に落ち着いたトーンの、じんと感動できる作品。どうぞみなさんも映画館へ!

 

 ☆2011/2/19~全国ロードショー

 

 

 

 

 

 

2009年10月30日 (金)

はてしない物語

 久しぶりにミヒャエル・エンデの映画、『はてしない物語』を見た。

 本好きの少年が本の中の冒険へ入り込んでいくファンタジーだが、見終えて、手に取った岩波書店のずっしりと重いワインレッドの表紙、アウリンの蛇を見つめていると、読んだ日々の記憶が鮮やかに蘇った。

 本に触れた触感の記憶は、物語の内容と共にしっかりと脳裏に刻まれ、本の世界を生きた時間を呼び戻す。物語といっしょに永遠の命を生きている記憶。そんな珠玉の記憶の首飾りを、これからを担う子供たちには持ってもらいたいと強く思う。

 映画のラストシーン、バスチアンが幸福の龍、ファルコンに乗って大空を飛びまわる喜び。想像の大空は、ほんとうに「はてしない」希望に満ちていると感じた。

 娘は思わず、つぶやいた。

 「飛びたいなぁ! ファルコンに乗って!」 

2009年8月 4日 (火)

書くことの始原

 昨夜から、NHK教育テレビ19時より、「アンネの日記」が放映されている。

隠れ家での外界から閉ざされた生活の中で、砲撃の音におびえるアンネの不安は日増しに大きくなっていく。日々は、ことばにならない重みを携えて、過ぎていく。

 日記とは、書く、という行為の始原にあるものだと思う。

 記憶を書き残すこと、日々の営みを白紙に刻むこと。

 歴史という大きな波に翻弄されながら、一日一日、呼吸をし続ける、人間の尊厳を希求する本性が、書くという行為に人を誘うのではないだろうか。

 今、生きていること。ここにあること。その喜びを、悲しみを、怒りを、そして、不思議を、魂へと刻むために。