フォト

最近の記事

Facebook

Twitter
2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

文化・芸術

2012年9月16日 (日)

三溝美知子個展「日々のひかり」

 今日は、表参道、HBGallery(03-5474-2325)で開催されている、画家でイラストレーターの三溝美知子(さみぞみちこ)さんの個展「日々のひかり」を、観て来ました。

 「日々のひかり」というタイトルにふさわしい、柔らかな明るい光が、ひとつひとつの絵から発しているようでした。

 一つのコップやお皿がそこに存在する。それはあたりまえのようでいて、決してそうではなく、尊い日々の営みが確かな輝きをもってあることを教えてくれます。身近な物の背後に、日常の生活にちりばめられた、幸福な記憶や豊かさが静かに表現されていて、魅入られました。

 ギャラリー全体の空間に光の粒子が降り注いでいるようで、温かい気持ちに包まれました。また、三溝さんと、創作についてのいろいろなお話ができ、嬉しかったです。

 19日(水)(11:00~19:00、最終日は17:00まで)まで、開催されていますので、どうぞお立ちよりください。また、この日は、私、神泉薫、詩人の聲の会の日でもあります。

 三溝さんの個展を観てから神泉薫公演(ギャラリーミハラヤ、銀座03-3564-4466)へお越しくださるのもよろしいかと思います。

 重ねて、どうぞ宜しくお願い致します。

 ☆HBGallery→http://www.hbgallery.com

 ☆三溝さんHP→http://michikosamizo.com

 

 

 

2011年9月23日 (金)

谷崎潤一郎と志賀直哉の観音菩薩像

 柔らかな木の温もりがそっと伝わってくる、光に包まれた観音様。素朴な頬笑みがふと漏れてきそうな優しい菩薩様…。

 11世紀初めの平安時代の作と推定される、高さ約1メートルほどの木造の観音菩薩像の写真がふと、新聞を開いて目に止まった。(2011.9.21.朝日新聞夕刊)

 1927年、奈良市の骨董店で、谷崎潤一郎と志賀直哉が見つけた観音像があるという。

 その時、谷崎が買い求め、のち、32年に、直哉が譲り受けたのだそうだ。直哉も、生活難のため、東京へ転居後に手放してしまったと。

 谷崎と直哉のそばに安置されていた、この観音像は、二人のペンにどんなまなざしを送っていたのか。

 また、二人は、観音像の背後に何を幻視していたのか。

 谷崎と直哉の息遣いを、改めて、そっと確かめたくなった。

 流転する時代を駆け抜ける、書き手の魂を反映するように、菩薩様は、そっと今日も微笑んでいる。

 

2011年2月17日 (木)

旅する絵描き いせひでこ展

 

 今日は、世田谷文学館で開催されている、「旅する絵描き いせひでこ」を観てきた。

 いせひでこは、パリのルリユール(本の修復師)の仕事をモチーフに創られた創作絵本『ルリユールおじさん』(2006)が話題となった絵本作家だ。

 彼女は、「旅」を重ねながら、「場」にインスパイアされたスケッチを数多く描き、その丹念なスケッチを元に、優れた絵を生み出していく。

 旅する画家のまなざしは、スケッチブックに描かれた鉛筆の線そのもの。ときに白い枠からこぼれおちんばかりの勢いで、対象が熱く掬いとられ、それらは、ひとつひとつ躍動し、温かな「呼吸」がみなぎっている。

  1本の木に、一人の少女に、ルリユールおじさんの1本1本の指先に。

 額に入れられて飾られている原画は、1枚1枚とても魅力的だったが、私は、いつも持ち歩いているというスケッチブックや、アトリエの机に置かれている筆や絵の具の佇まい、踊る楽譜、ゴッホ書簡集につけられた、たくさんの色とりどりの付箋に心惹かれた。創作現場のリアルな「情熱」をそこに感じるからだ。

 何ものかにインスパイアされ、絵の神様に心をわしづかみにされて、キャンバスの前から一歩も動けなくなる画家の背中。そこには、表現者のこの上ない至福と、どうしようもない孤独が、いつも混在しているはずだ。

 けれど、画家を写した写真の下に、写真家の娘さんの名や、パートナーのルポライター柳田邦男さんの名を見るとき、柔らかな光が、一心にタブローと向き合うたった一人の孤独な背中を、優しく見守っているように思えた。

☆世田谷文学館 http://www.setabun.or.jp/ 来月いっぱい開催されています!

2011年2月13日 (日)

差異と色気とスピリチュアリティ

 古井由吉がいう「色気」。色気はどこから生まれるか?

 それは、“差異”からだと、彼は言う。

 1980年代、行き過ぎた市場主義から、同じような商品ばかりが並ぶようになった、日本社会。そこから“差異”は消えていったと。

 確かに、何かに惹かれる、といった感情の発端は、自分にはない、“差異”に触れるからだろう。未知なる世界はみな、今ここにはない、“差異”から広がる。物であれ人間であれ。だからこそ、もっと知りたい、謎をのぞいてみたい、と思う。そこに惹かれあう引力が働く。

 男女の関係は最も根源的で、陰陽の差異がぶつかり合って、新たな生命が生まれる。新たな未来を形作っていく生命エネルギーが滾々と、生み出されてゆくのだ。

 差異のなくなった世界で、みな、没個性の波に漂い、寄る辺ない「顔」をして歩いている。

 ユニクロの服を着て、マックのハンバーガーを頬張ったりして。

 そして、巷にあふれている、ハウツー本やスピリチュアリティの本を開くと、ある一定の法則に基づいた言葉が畳み込まれていく。

 ポジティヴに、どこまでも光りと幸福に向かって。

 そう、これらの書物は、心の持ち方を明るくしてくれる、頑張ろうという気持ちを包み込み、育んでくれる。先行きの見えない社会で生きる。ひとりぼっちの自分の迷いや孤独や焦りに寄り添ってくれる。決して嫌いではなはないのだが、時折、読後に、どことなく不全感が残るのだ。

 その不全感は、この“色気”のなさ、ではないか。

 全ての魂は進化向上の途上にあり、みな等しいとする。クリアな魂を目指して切磋琢磨する。その一つ一つの魂に“差異”ということばはふさわしく思えない。

 ある意味では、“差異”こそが、苦難や煩悩を生むのではないか。

 子供の世界でよく見られる、「みんな一緒がいい」そうでなければ、仲間はずれにされるから。“差異”を避けて、みんなで没個性の、荒波の立たない穏やかな時間に憩う…。

 しかしながら、人間が生きる、ということの現実は、たとえ、苦難を呼び込もうとも、“差異”があり、混沌(カオス)がある。艱難辛苦の闇の向こうに、本当の「光」は見えてくるのではないか。その「光」こそ、最も始原的で、エロティックな豊かさを隠し持つのではないだろうか。

 奔放に人生へ投げ込まれる、さまざまな、物の、人間の、事象の“差異”の礫に、内側から何もかも壊されて、全く見たことのない地平に立つ自分をこそ、幾度も経験してみたい。

 のっぺりとフラットな道に面白みなどあるはずがない。

 「色気」の引力に振り回されて、この上なくエロティックな詩を書いてみたいと思う!

 

 

 

 

2011年2月12日 (土)

古井由吉 究極の文学「声」と日本の色気

 表現者、には、いや人間には誰しも、「転機」というものがある。

 その「転機」がどのようなものか、人それぞれ巡り合う事象の、何が、個の生の、琴線に触れうるのだろうか。

 作家、古井由吉の転機は、病。53歳時に患った頸椎間板ヘルニアでの入院生活を経て、大きな憂鬱に襲われたという。「老いと死」が避けられないものとして目の前につきつけられたとき、「『限りある自分の命を超えるものをつかみたい』と考えたときに浮かんだのが『言葉』だった」と。

 それから、足腰のリハビリとともに「言葉のリハビリ」として、日本や外国の古典を読み込み、60歳を超えて到達した究極の文学は「声」だった、という。

 「言語の源は声でしょう。西洋では19世紀初めまで書物を音読したそうです。人間の思考力は感情が原動力になることがある。その感情を刺激するのは黙読でなく音読、声だと思うのです」

 言葉からの恩恵と力を得て花開く古井文学には、香気ある色気に満ちている。

 サンデー毎日、2/20号の「古井由吉が語る 日本の処方箋」からの古井のことば、には、深く納得させられる。

 「日本では昔から陰陽の和合、男女の和合が社会の根幹に置かれていたのです。陰陽の和合した歌を詠み、気象が順調であることや豊作を願ってきた。…色気こそが日本のオリジナリティだと思うのです」と。

 高度経済成長によって生み出された大量生産、大量消費、均質化の市場主義によって、失われた日本人の「色気」。無個性の氾濫。

 成熟した、顔を持つものがいなくなった日本。

 日本という国の転機は「高度経済成長」といえるだろうか。

 「転機」から飛躍していくものと、転落していくもの。

 道は二つに分かれていく。

 古井のことばには血が通う。温かいのだ。そして、温かさ、こそ色気につながっていくのではないか。

 そして、肉声ほど、温かく、エロティックなエネルギーがほとばしるものはない。人間の感情を大きく刺激し、影響を与える。

 健全な色気さえあれば、世の中うまくいく、と古井が言うのであれば、La Voix des Poetes(詩人の聲)の試みは、日本を大きく変えていくことができるのかもしれない。

 

 

 

 

2010年1月29日 (金)

触れる文字

 「意識が肉体を震わし、外に出ることで、一つの言葉が生まれる。…書き言葉なら、触角を通じて初めて文字が生まれ、文章、文学が生まれます。」

 今朝の朝日新聞、大佛次郎賞を受賞した、書家の石川九楊さんのことばだ。

パソコンによる、触覚なしに成立する作文は、肉体的、精神的な行程をすっぽり抜いて、奇怪な機械作業によって文章がてきる、というおそろしい問題を含んでいると、いう。

 今もこうして、パソコンを打って、文章を書いているが、時折、機能に翻弄されて、内奥から訪れるリズムをつかみきれない瞬間が、確かに、ある。

 詩のリズム、肉体のリズムを噴出させるとき、それは、やはり、紙に書きつける。その方が、詩の輪郭がクリアになる気がする。

 ワープロを使っていたなごりで、パソコンは、かな入力を使っていて、能率、効率を考えれば、不便で仕方がない。でも、訪れる「あ」は、A、ではない。瞳を閉じてみえてくるのは、ひらがなの、「あ」なのだから、Aと打つのはイヤだなぁ、と。私は、日本語で詩を書くのだと!と、小さな信念の柱を立てながら、画面に向かう日々だ。

2009年11月20日 (金)

詩人 松尾真由美 box詩集コラボ展

 詩人 松尾真由美のbox詩集コラボ展「装飾期、箱の中のひろやかな物語を」を見てきた。

 詩は松尾真由美、箱創作 市原世津子、総合ディレクション&インスタレーション 河田雅文、アルファベットのそれぞれの文字から拾われることば、詩と美しい箱のコラボレーションだ。

 たとえば、Aの詩集では、alone[ひとりだけで] 、altitude[高度] 、associate[交わる]、ということばをタイトルとした詩をイマージュさせる箱が、置かれてある。

 ひとつひとつの箱は、すべて、素材や形、色、入れられるモチーフが異なり、やわらかな秘密を内包して美しい。松尾真由美の詩は、ひとつの詩も、ひとつひとつの詩集も、豊かな小宇宙を思わせる。箱という矩形の、謎めいた器と松尾作品は不思議な共鳴を見せていた。そして、箱とは、「中」というものの存在と不在を想起する、神秘性と官能性を携えていて、松尾作品としっくりと繋がるものを感じた。

 松尾真由美の詩は、愛と官能に満ちた女性的な伸びやかなリズムと共に、潔い、骨太の核がある。女性性と男性性の融合と衝突によって詩は生み出されるということを、読むたびに再確認させられる。

 豊かなことばの海に揺られる箱は、どこへたどりつくのか。見る者の、読む者の意識の深まりの夜へと、届いていくだろう。

 展覧会は、港区高輪3-10-7-1FのGallery oculus(ギャラリーオキュルス)で、26日(金)まで行われています。http://www14.plala.or.jp/oculus/

 

2009年10月19日 (月)

アルベルト・ジャコメッティの線

 アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の肉筆素描を見た。幾重にも重なる鉛筆の線を見つめていると、物や人の本質を、己は本当に描ききれるのか?という作り手の声が聞こえてくるような気がする。線が重なった部分の濃い輪郭は、何か根底にある強い孤独を感じさせた。

 表現の核にある、いや、人間存在の核にある本質的孤独。それを見えるようにするために線を重ねるのだろう。しかし、書きつけても書きつけても零れ落ちる何かがある。現れた線の背後にある見えない輪郭を透かし見るとき、ちらりと、本質の輝きがのぞき見えるのだろう。

 詩が本来は沈黙であるように、ジャコメッティの線も、重なり合えば重なり合うほど、静謐な響きを見せる。線の背後の余白が、世界の広がりと謎を現わす。

 ギャラリーから出た自分の足元から伸びる影が、思わず、ジャコメッティのあの、細長いブロンズ像に思えた。

 ★赤坂東急プラザ2階 丸の内ギャラリーにて 10/30(金)まで

  http://www.marunouchigallery.com

2009年5月 7日 (木)

ミュージカル、アニー

昨日、青山劇場で、ミュージカル、アニーを観た。

娘と同世代の子供たちが舞台の上で踊り、歌う。

赤毛の巻き髪の、赤いワンピースの女の子の天真爛漫な明るさ、高らかな歌声が胸に響いた。

そして、子供たちの明るみの光を浴びる中、印象的な場面があった。

舞台の時代は、1933年の冬のニューヨーク。回復しない景気を嘆き、ルーズベルト大統領と閣僚たちが沈み込む中、アニーがそっと歌いだす。

「朝が来れば、トゥモロー…明日は、幸せ…」

アニーの希望を失わない明るさに励まされ、不況を打開するための「ニュー・ディール政策」を思いつくシーン。

時代は異なっても、今、現在の不況、時代状況に思いをはせた。人々の笑顔や明るさを取り戻す、アニーのような、ピュアな心の持ち主が、足りないのではないか。

煌びやかな照明の光の元に繰り広げられる物語に引き込まれながら、一歩劇場出た後の、現実の世界へ、まなざしは遠く伸びていく。

家へ帰ると、娘は、タップダンスの真似をして、ずっと踊り続け、歌い続けている。

「トゥモロー、トゥモロー明日は幸せ…」

生の舞台の時間を生き生きと生きる子供たちの笑顔、娘の笑顔、やわらかな未知の可能性を伸びやかに広げていける未来を、つくりだしていこう。

2009年5月 5日 (火)

無名の英雄

ブラン・ベルマナン────

     ダルジャン────

ブルー・セリュレオム────

     コバルト────

     ブリュム────

ジョーヌ・カドミオム・シトロン(明色)────

     ド・ストロンチウム────

ラック・ド・ガランス・ビチュム────

     ブルー・エ・ブリュン──── 

     ヴィオレ・ブルー────

ノワール・ディヴォワール──── 

…………

ピカソのパレットの無名の英雄たちの名。ピカソの絵具の註文書の記述だ。絵具の色の名を辿るだけで、キャンパスでの格闘が目に浮かぶ。色彩のロンド。内なるパッションがあふれ出す。

「プラン・ダルジャンに敬礼! ルージュ・ベルサンに敬礼! エメラルド・グリーンに敬礼! ブルー・セリュレオム、ヴィオレ・コバルト、アイヴォリー・ブラック、敬礼、敬礼!」(『語るピカソ』ブラッサイ、飯島耕一、大岡信訳、みすず書房)

心象を表す、色への敬意。色は不思議だ。

詩を書くとき、ひとつ、ひとつのことばに、「敬礼!」を、心で唱えよう。

タイトルに、フレーズに、句読点に、そして、まっさらな余白にも、すべてがポエジーを表す。

そして、ペンにも、指先にも、魂にも、宇宙にも、「敬礼!」を。

より以前の記事一覧