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2016年9月14日 (水)

「目」のことばと「耳」のことばの往復について

   今日、ふと思い立って、おとといの詩人の聲で聲に乗せた作品をもう一度読み返していた。

  会の中で、リズムが悪かったかなと、気になった部分を削るか、表現を変えてみようかと思ったのだ。

しかし、いざ作品に向き合って削ってみると、どことなく落ち着きが悪い。

その一方で、一時間で聲に乗せた作品をひとつの世界とするならば、何篇か削れる作品があり、削ってみると、詩と詩の間に余白ができ、風通しの良いものになった。

  なぜ、 固有の詩は違和感があるのか、しばし考えていた。

作品の内容やテーマによって書き方は変わるが、基本的に、詩の行は、前列の文字の象形や意味やイマージュが引き連れてきて、次の表現を置く。緻密な連関が詩の構造を形作っている。「目」で読み、感じ、考えることに重心を置いていると言えばよいか。

「耳」で聞くならば、もう少し柔らかな表現が好ましいが、「目」で読むならば、漢字の重さも必要になってくる。「耳」で聞くことばは、感じることに集中するが、「目」で読む行為には、感じることと同時に、考えるという観念性が伴ってくる。

「目」のことばと「耳」のことばの往還の中に、生きたポエジーというものがあるのだろう。

ひとつの詩にもいろいろな顔があり、場に応じて、変化する面白さがある。

空間に宿った一瞬の聲は、生まれては死へ向かい、書物に置かれた言葉は、紙の命と運命を共にする。いずれも、世界という計り知れない広さの中に、宙づりにされた、「書く」という行為に手を伸ばしたことの証であろう。

様々な場で、聲を発し、再び机に戻り、詩を見つめると、新たな発見がある。

詩が売れる、売れない、詩が読まれる、読まれない、という思考の渦から離れて、詩はどこにあるのか、詩はどこに向かっていくのか、最も根源的な書くという行為の持続とともに、考え続けたい。

 

 

 

 

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