現代詩手帖12月号 現代詩年鑑2013 展望 高橋睦郎「詩歌の国の住人として」を読んで
2011年3月11日に起こった震災、原発事故から1年8カ月が過ぎようとする現在、混迷する政治の言説が年末の世を覆う中、高橋睦郎氏の展望を興味深く読んだ。
日頃抱いている詩や詩集をめぐる奇妙な違和感を、「詩歌の国」「現実の国」というわかりやすい表現で、詩の周囲の人間たちのざわめきを言い当てている。もっとも深く共感したのは、次の一節だ。
真の詩歌の国の住人と贋物とを見分ける方法は、その者が詩と詩人とのどちらかを重視するかを見ること。詩歌の国で重要なのは詩であって、詩人ではない。
人ではなく、作品こそが主であることはいうまでもないだろう。詩人は詩によって、詩人になりうる。人という文字の前に詩という文字が立つことからも、明らかであろう。また、詩集を一冊、出版する。その現実の行為のもとに、書き手は便宜上、「詩人」という名のもとに呼ばれるが、それは、あくまでも、市場においての利便性による、名づけが行われるにすぎないと私は考えている。なぜなら、書き手が詩人と呼ばれるに値するのは、ポエジーなる彼岸の光に呼び出され、その光に応答することばを紙面に書き付けている、その一瞬のみ、書き手は「詩人」と呼ばれると思うからだ。あるいは、彼岸の光とことばとの交合の瞬間に立ち会う者、その役割として、詩人という存在は在り、ことばの一つの出口、媒体として生きる時、詩人と呼ばれるであろう。その瞬間的な営みを過ぎれば、詩人は、詩という冠を取り去った、現実の世界を生きるひとりの人間にすぎない。どれだけ多くの詩集と呼ばれる書物を世に送り出していようと、書き手はつねに、見えざる光に呼応する表現者であるか、問われ続けているはずだ。また、書かれた作品も、墓碑銘のようなもの、詩作という、詩歌の国の営みにおける足跡の燃焼の跡にすぎない。
また、詩集が真に「詩」の集合であるかも、出版された現時点では、本来の価値は不透明、読み手の存在により、詩は瞬間的に浮上するが、その読み手も常に揺れ動く存在だ。詩の価値は目に見えやすいように数値化できるものではなく、主に、個人ひとりひとりの主観によるものである限り、評価には限界がある。今現在、受け入れられるものもあれば、書き手の命が燃え尽きた先にある、遠い人類という読み手を待つ詩もある。書かれた詩に時代が追いつかないこともある。多くの著名な表現者たちが、生前認められない例は枚挙にいとまがない。わずかながら現在できることは、脈々とつづく日本語の伝統という篩を自らの裡に持ち、時の審判を謙虚に待ち、時間の浸食に耐えうる詩を、目指すことではないだろうか。もちろん、詩意識はひとりひとり異なる。先の目標は、様々に揺れ動く時代の多様な意識の中での、私個人の内なる目標にすぎない。
なぜ、そのような不確かな詩、なるものに焦がれるのか、それすらも生きる上での謎である。しかしながら、高橋氏のいう「人間は死すべき者」「いのちは儚いもの」という原初感覚に立ち会うとき、詩の力、文学の力は、大きな精神の救いをもたらす。「死すべき生」という運命は、生ある者にとって、だれにでも平等な普遍的な現実である。だが、その不条理に耐えられぬ瞬間が、いくどなりと人生にはある。その孤独や恐怖、諦念から、ことばの永遠性は、魂の不滅の感覚を、人間の心奥へと、降り注ぐ。先に逝った者たちが、書き残してくれた詩の数々の光があるからこそ、私は今現在ここに生きていられる。一瞬なりとも生への価値を見出し、一歩前へ進む勇気を与えてくれる。できうるならば、自己の詩が、はるか未来の人類にとっての、救いの光になれるよう、研鑽するのみだ。
私は、いつも、詩について考える時、ある瞬間を思い出す。第一詩集に収められている、「「火」──発語、そして消滅へのプロセス」という作品を書いていた時のことだ。この作品は、「火」という、ことばの発生と消滅という現象を、ことばでたどったものだ。その後半部分を引く。
…発語を発火点とした燃焼は、極めて個人的でありながら、共有すべき眩しいエネルギーへと化していきます。肝心なことは、大きく息を吸って「火」と発語すること。そうすれば、ことばは独自のスパークを放ち、わたしたちをはるか高みへ連れ去ってくれるでしょう。後には、酸化マグネシウムの金属臭が立ち込め、黒々とした闇が胸に燻ることは否めません。なぜなら、「火」とは、闇を背景に立ち上る「光」そのものだからです。
その日は、一日中、どんよりとした薄曇りの空で、陽の差す瞬間のない天候だった。午後、二時頃から夕方にかけて、集中力が増し、恐らくは先に記した、闇に立ちあがる光をイメージしていたときのことだ。ゆっくりとことばが舞い降りてきた瞬間、右上の額のあたりに、耐えられないまぶしい光を感じ、即座に外につながる窓に目を向けた。しかし、空は変わらぬ暗さで、太陽が顔を見せた気配はない。では、今見た光は一体何だったのか。不可思議な感覚にとらわれながらも、この作品は完成した。しばし、現実の時間に戻れない自分がいた。彼岸と此岸の狭間をふらふらと彷徨っていた。あの時見たあの光は、物理的な肉体の目が見たのではない。精神の肉体、いわば、魂の目が開き、詩歌の国、彼岸の国から差す光を見たのではないか。そんなものは幻であると、笑いたいものは笑えばいい。強烈なその光の、どこか懐かしいまぶしさは、私の心身に刻まれ、魂に刻まれ、現世のざわめきに、自らの詩精神が揺らぎそうになるとき、いつも、あの光、光がやってきた方角、遥かな高みを目指す。そこに詩は、揺るぎない光を発して存在すると思うからだ。詩は、誤解を恐れずにいえば、自己表現ではない。「ことば」の表現である。作品の背後に、うっすらと醸し出される自らの表出は、主ではなく影である。詩には、現在の、時代の空気に包まれた、ことばの呼吸があるだけだ。
詩を私有化し、詩を名誉や権力を欲するがために、手段化する者がいるとするならば、詩は、物言わずそっと、その書き手の元から永遠に去るだろう。詩の光は消え、詩人は消え、闇色の春が、黒々と乾いた地上を覆うだろう。だがしかし、詩を真に欲する者たちで静かに営まれる詩歌の国では、荒れた大地を耕す、細いペンを持つ詩人たちが、数少ないながらも、薄曇りの空の下、ひっそりとことばの鋤をふるうだろう。あえかな希望を持って、ことばの種を植えるだろう。ことばなしには生きられぬ存在、人間の魂の飢餓を救う、やがて豊かな重みを持つ、詩の栄光の果実、ひとつの光を、人類の未来へと実らせるために。
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